
1.お供えの水として
葬儀の際、葬儀社が用意してくれる枕飾りセットに「湯のみ」が用意されている場合が多くみられます。これは茶湯を入れるのではなく水を入れるために付けられたものと言って間違いないでしょう。この水で「末期の水」を行う場合も多くみられます。仏壇にも茶器がありますが、それぞれ水、お湯、仏飯の3種を入れるために用紙されているようです。しかしこの3種類は同列ではありません。まず「水」ありきです。密教の六種供養に水をお供えする意味が説かれています。六種供養では水を「閼伽(あか)」と呼びます。「閼伽水」という表記を見かけることがあるのですが、閼伽だけで水を意味しているため「水水」と書いているようなもので誤った表記です。おそらく「閼伽」という何か特別な処理を施した「水」、たとえば「香水(こうずい)」のようなものと勘違いして表記されたものが定着してしまったものと思われます。「真言宗の事作法」には「閼伽は梵語のアルガの音写で無濁(むじょく)と訳され水のことであります。」とあります。この「アルガ」が「アクア」の語源だと考えられていますが、元々「価値あるもの」という意味があるそうです。水は命の根源であり、われわれ人間の身体も7割が水分であるとされ、生命の維持には欠かせません。日本のような多雨地域に暮らしているとその恩恵について忘れていることも多く、少雨や災害などでの断水時に改めて水の大切さが取り上げられ、有り難さを再認識させられます。古代インドではガンジスなどの大河の流域以外では井戸も少なく、日照りイコール生命の危機を意味したと思われます。六波羅蜜で閼伽は「布施」の心を表すとされる第一の理由でしょう。仏教以外の話で恐縮ですが、キリスト教布教のためと言われている映画「ベン・ハー」にも象徴的なシーンが出てきます。若き日のキリストが奴隷となったベン・ハーに、そして時が過ぎ十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るキリストに今度はベン・ハーが水を差しだします。命の再生と継続を願う「水」を手向けるという行為、その水を死者に対し「供える」ことは一見矛盾を感じますが、人は様々な意味を見出し、思いを込めて「水」をお供えしてきたことを解説したいと思います。
■ 水は心も潤す
「真言宗の事作法」には「閼伽は乾いた人間関係を潤いのあるものとするため、水がものを潤すように私達は施(ほどこ)しをいたしますという布施の心を表します。」と説かれています。さらに「布施は施しを偏ることなくあらゆる方向に行うことをいい、それはあたかも水が世界中の到るところにあって総てのものを育てるのに役立っているように(中略)水のように公平無私の心を持ち、人類社会に役立てることが大切であります。」と布施の心が解説されています。慈育(じいく)・慈潤(じじゅん)の徳と言われ、仏様のみ教えにしたがって飾りや見栄を捨て去り、一人ひとりが持っている能力や知識、財力などそれぞれの特技や持ち味を活かして人類社会に役立てることの重要性が述べられています。生命の源である「水」が「人間関係を潤いのあるものとするため」と説かれているところに驚くとともに、布施の根本がそこに述べられていることに気付かされます。さらにこの後の記述は「御布施」の本質に迫ります。「何も寺院や社会に寄付、それも金銭で済ませることだけを布施というのではありません。そこには対価や見返りを期待したり要求したりするような度量の狭い心は存在しません。ただ一つボランティア(志願、自発的な利他行為)の精神があるだけです。このような所有欲・独占欲を捨て去り、喜んで与える喜捨(きしゃ)の心がすなわち布施の心であります。」と結ばれています。最近は葬儀の御布施が高いとか安いとか定額制だとか、まるで時間給のように、すべて対価・等価で量られた世の中になっていますが、仏教会側から消費者、僧侶の双方に対して、このような強いメッセージをもっと発するべきだと思います。話が金銭の御布施にそれてしまいましたが、閼伽の持つ「潤す」という力が単に乾いた喉を潤すというだけでなく、様々な事象から布施行との相通ずる意味を見出し供養の基本とされたことは、信仰に対する感謝と報恩を形にして表すことが大事であることを改めて認識させられます。
■ 水の持つ浄化力
「真言宗の事作法」は閼伽の解説の最後に「施しの心によって自身の不浄が除かれます。水が総ての汚れを洗い清める優れた浄化力を持っているように、施す者にはその功徳として心の悩みや汚れを取り除くことができます。」と締めくくられています。この水の持つ浄化力と葬儀・供養とは切っても切れない関係性にあると言っても過言ではありません。葬儀・供養の様々なシーンにおいて水で浄める行為が出てきます。水の持つ霊力を信じ、閼伽の一滴は衆生の身を浄め一切の煩悩を浄化させると説かれてきました。水は様々な物質に深く浸透し、表面だけでなく内部まで洗浄し汚水となって流れ出てきます。さらに自然界では雨、川、海で浸食が行われ巨石、巨岩、断崖などまで水の力で大きく形を変えていきます。仏教だけでなく様々な宗教で沐浴が行われ、修験道では滝行や水垢離で身を浄めます。古来、葬儀の様々な作法や行為において「滅罪」と「絶縁」は大きな位置を占めてきました。生前の罪を洗い流すため故人に「湯灌」で直接かけたり、「願ほどき」と称し普段来ていた着物を逆さに吊るして水をかけ成仏のためこの世との絶縁を願い、水の霊力で再生を願い「末期の水」として口に含ませたりします。末期の水については様々な意味が込められていますので次回解説する予定です。そのほかにも死穢から逃れるために遺族や葬式組と呼ばれる村衆が自らを浄めるために禊を行うこともありました。さらに死者の霊魂を鎮めるために水をかけたり、飲ませたりさせていたと思われる行為も戦前までは多数報告されています。死亡直後の死者の霊魂は「荒魂(あらみたま)」という死霊として恐れられてきました。荒魂を鎮めないと災厄をもたらすと信じられていたことから「鎮魂儀礼」も葬儀の大きな目的の一つでした。前出の「願ほどき」も死者の魂が現世に執着することを水の力で開放する意味が多分に見られます。「水」に関しては宗教行為ありきというよりも、民俗行為に寄り添い尊重しつつ意味付けをし、供養の作法として取り入れることで、最も単純ながら純粋で深い信仰の入り口となりました。
2.「末期の水」について
最近では「末期の水」は死後、病院から搬送され、安置した後に行われることが多くなったと思います。病院で亡くなることが多くなった今日、病院内で行うことへの抵抗感や違和感が先に立つために、その場(病室)で行なわなくなったのだと思われます。本来は死亡する直前に行われることが多く「死に水を取る」と同義に扱われていました。枕経に来た僧侶が末期の水を説明する際に、お釈迦様がお亡くなりになる直前に水を所望され、弟子たちが水を差し上げたところ安堵して最後の時を迎えられた。という故事にちなんでいる行為だと説明するのを何度も聞きました。あの世でものどの渇きに苦しむことの無いようにとの説明を付け加える僧侶もいました。このことから末期の水が仏教の儀式だと多くの方が思っておられることでしょう。しかしながら「岩波仏教事典」では末期の水の項目は無く、他の項目の説明文の中に言葉としても出てこないのです。インドや中国をはじめ他国の仏教で死者に同様の行為を行うことはありません。日本人が古来から行ってきた民俗行為に仏教故事を当てはめたのだと思われます。しかしながらこの民族儀礼に関しては様々な時期、場面、方法とその意味付けにおいて、いくつかの異なる解釈がなされています。その理由についての考えられる事項として、仏教民俗学会が編集した「仏教民俗事典」において末期の水の項目に次の記載があります。「誕生から死に至る人生儀礼についての報告例は多いし、葬送習俗もかなり精細に調査されてきた。だが臨終儀礼は第三者を排除する場であるためもあってか、報告例も限定されている。末期の水の問題はその典型だといえよう。死者と水の関係はまだ解明されたとはいい難い。」葬儀の現場で仕事をしてきた人間として、この文章を読んだときは自分が体験して感じ得た感覚と最も近いものでした。
■ 今際の際(いまわのきわ)に行う意味
「末期の水」を全く知らない方のために「民俗小事典 死と葬送」に記載されている主要部分を紹介しておきます。「臨終に際して、近親者が水を口に含ませることで、一般に死水(しにみず)といわれる。死の間際に水を求める欲求を満たすために行われる。(中略)亡くなった後に行われることもある。筆・綿・紙・樒の葉などが用いられているが、特別に作った柄杓で飲ませる例もある。」と解説されています。さらに鳥の羽や紙縒り、綿棒、割りばしと脱脂綿、貝殻など地域風習により多岐に渡ります。さて、今際の際と言われる臨終直前に行う意味について、全く正反対の解説がなされています。一つは水の霊力による再生を祈る行為です。水は生命維持の根源でもあるので蘇生願望の行為として行われました。気を失った人に水を吹きかけて正気に戻すように、再生を願う「魂呼ばい」の行為として死者の顔に水を吹きかける習俗の報告例があります。なんとか口に含ませた水を飲んで欲しい、そしてもう一度元気な姿に戻ってほしいという思いを込めて行います。もう一つは「望み水」と言われ、水を与えて安楽死させるという行為です。死期がせまった病人に、欲しがるからと言って水を与えると、おいしそうに飲みほした後でこと切れることを過去の経験から知っていました。また危篤の際に脈が亡くなった後で、口に三度水を含ませても喉を通らない事を見届けることで、生死を確認する実質的な死亡確認として行われた記録があります。地域特性はあるものの蘇生願望と安楽死の正反対の意味が一つの行為に込められてきたことに、残された者の複雑な心情を見て取れます。さらにもう一つは生還を期し得ない場合におこなう水杯(みずさかずき)を交わすためというものです。親の死水を取らないようなものは最大の親不孝とされ、天罰を受けると言れたり、末期の水を与えられなかった死者の霊は浮かばれないとされていました。これは酒ではなく水杯でなければならず、今際の際に交わす意義を見出し、現在では考えられないほどの極度の緊張をもって行われていたに違いありません。
■ 臨終後は滅罪と魂しずめ
死後に行う末期の水は唇を湿らす程度の行為となります。ここに込められる意味は前回の解説と多少重なりますが、滅罪と鎮魂です。滅罪と言っても故人が生前に盗みを働いたわけではありません。故人が魚や鳥を食べていたり、蚊やハエなどを退治したかもしれません。さらに知らずにアリを踏み殺していたかもしれません。殺生が罪だという考え方は主に仏教が伝来して以降に広まったと考えられますが、殺生したものは六道の地獄や畜生、餓鬼などに行って責め苦を追わなければならないと固く信じられていました。そのために葬儀の際には何とかして罪を滅ぼし、人間や天上に行きたいとの願望は様々な葬送民俗に色濃く表れています。経文が書かれた帷子を着せたり、滅罪真言の書かれた護符を懐に忍ばせたり、なかでも水の浄化作用を強く意識した水垢離や灌頂を連想させる儀式作法は滅罪儀礼の中心であったと思われます。湯灌など外から体を浄めるだけでなく、末期の水を口に含ませることによって体の内側から身を浄めて罪を洗い流そうと考えました。現在でも出棺時に「ええとこ連れてってもらいぃヨ!」と故人に向かって声をかける方を見かけますが、昔の人は現代人の想像が追い付かないほど真剣に滅罪を願っていたに違いありません。鎮魂に関しては荒魂に対する恐れから「流す」という作法でこれを鎮めようとします。新亡の霊は荒魂とされ適切な祭祀を怠ると即座に祟りをもたらし、遺族のみならず村全体に大禍に見舞われると考えられていました。霊魂を「流す」ことは「精霊流し」に代表されるように様々な儀礼が日本各地に存在します。さらに「日本の葬送儀礼(岸田緑渓著)」には「霊魂は水を好むようです。(中略)水はこの世とあの世の境界にあって、両者を結び付けると思われた・・・」と水と霊魂の関係を解説し、沖縄の事例を紹介し「水を媒介にして、生と死の循環が期待されているのではないか・・・」と結ばれています。
最近では無宗教葬や直葬の影響で「末期の水」を行わない葬儀社が増えつつあると聞いています。また、葬儀社が勧めても遺族側が断るケースもあるそうです。蘇生願望と安楽死、別れの水杯に滅罪と鎮魂など複雑な感情が交差し凝縮した民俗儀礼です。意味の深さを少しでも遺族に説明して、故人への願いを行為で表す心豊かなお葬式を1件でも多く施行してほしいと思います。