
現在では納棺の際に死装束として仏衣(経帷子)を着用していただくことが徐々に減少しています。故人が特に気に入っていた着物や服、男性ならスーツ姿など様々なご希望を伺います。病院では以前のようにしっかりした死後の処置をされることはほとんどなくなりましたが、代わりに死期が近づくと「お好きだった服をご用意ください」と家族に伝えて着替えだけはして差し上げるところが多くなった印象です。逝去後にお迎えに行っても「病院さんで着付けてもらったのでこのままにしてください」と要望されます。そのような場合には、仏衣には様々な意味や願いが込められてきたことをご説明して、ようやく経帷子(きょうかたびら)を畳んだまま足元に納棺することになります。先日、高野山での研修の際に四国の僧侶の方とお話をした際には「四国では仏衣に着替えないことは考えられない」と仰っておられました。さすがに巡礼の聖地だと感心いたしました。関西でもまだ3割くらいのご遺族が「白装束に着替えさせてください」とご希望を受けます。ただし死装束の着付けにおいて経帷子や旅装束までは着用するにしても、額に着ける三角形の布は頭陀袋に入れるか、まったく取り除いてしまわれることが多いことと思います。ドリフのコントではありませんが幽霊のユニフォームのように面白おかしく扱われ、もし着けようものなら故人の尊厳が損なわれたように感じられ、ご遺族が憤慨なさるかもしれません。しかしながら鎌倉時代の「春日権現験記」に陰陽師(おんみょうじ)が紙冠(しかん)を装着している所が描かれているそうです。加持祈祷を司る陰陽師が何故身に着けていたのでしょう。それは三角の形が修験道では悪魔降伏のシンボルとして尊ばれていたからです。夢枕獏さんの小説を読んだり、映画を見た方はご存じでしょうが、「五芒星」と呼ばれる星形や「六芒星」と呼ばれる正三角形と逆三角形を組み合わせた六角星形は、結界やあらゆる魔除けの呪符として重宝されました。五芒星は「陰陽師」の主人公でもある安倍晴明(あべのせいめい)の桔梗紋として使用され、六芒星は最強の魔除けと言われた「籠目(かごめ)」の文様です。三角形はその根本をなす基本形であり、修験道において大三角形は聖印と神聖視されていました。さて、この三角布の名称ですが全国各地で様々な呼び方がなされています。柳田國男先生の「葬送習俗語彙」や五來重先生の「葬と供養」などではホウカン(宝冠)・シカン(紙冠)・ヌノエボシ(布烏帽子)・ヒタイエボシ(額烏帽子)・ヒタイガミ(額紙)・カミエボシ(紙烏帽子)・カミカクシ(髪隠)・ミカクシ(身隠)・ヒタイカクシ(額隠)・マンジヌノ(卍布)・シホウ、シハウ、シオホ(紙宝、四方)・シハン、シハンコ(紙半、四半、紙半子、四半子)・ゴマシホ(護摩紙宝)・ハンカン(半冠)・カンムリ(冠、被り)・ハチマキ(鉢巻)・ズキン(頭巾)・ホオカムリ(頬被り)・ソデカブリ(袖被り)・イロカブリ、イノカブリ(倚廬冠)・カツギ(被衣)・ボーシ、ボース、モウス(帽子)・フナボウシ(舟帽子)・ワタボシ(綿帽子、渡帽子)・トンボ(渡帽)・シロテヌグイ(白手拭)・キチュウガサ(忌中笠)・カムリカタビラ(冠帷子)・等々、種種雑多な呼称が取り上げられています。この他にも修験道の撮総(とりすぼめ)や兜巾(ときん)と呼ばれる古代山伏の被り物をそのまま用いる地区まであったようです。様々な呼び方からも先の考え方が、ごく一部の説でしかないことが理解していただけると思います。それらの全てを解説するほど(現代では)重要な衣装品目ではありませんが、葬儀社や湯灌業者の方々が頭陀袋に入れる際に「陰陽師の安倍晴明までもが身に着けていた最強の魔除けの印です」とトークしていただくことで、ご遺族にも大事な装具のひとつだと気づいて頂ければ幸いです。
葬具の中でも特に「絶滅危惧種」の一番手とも言える額の三角布ですが、以前に高齢者を対象とした「日本人の古来からの供養のかたち」というセミナーで講義した際に、幾人かの方から同じご質問を相次いでいただきました。それは死装束がテレビの番組でも取り上げられ、その時には三角布のことを「天冠(てんかん)」と紹介されたとの事でした。意味は「魔除け」の他に「閻魔大王に失礼にならぬように正装するため」と説明がなされたようです。インターネットでも同様の解説がなされているページがあり、情報源はどうも同じのようです。私も天冠の呼称は聞いたことがありましたが、出典が不明(民俗学の本には出てきません)のため大学講義用のテキストでは掲載していませんでした。調べていくうちに昭和28年に所沢(埼玉)で「天冠」と呼称している資料(岸田緑渓:日本の葬送儀礼)を見つけましたが、古代から第2次大戦以前では見つけることができませんでした。元々呼ばれていた「宝冠(ほうかん)」から→「冕冠(べんかん)」→「天冠」と伝言ゲームのように少しずつ変化していったものと考えられます。まず「宝冠」ですが、これは先にも述べた通り三角布が陰陽道・修験道の被り物から意味付けしたと記述しましたが、特に修験道では大日如来を自然そのものの大根本と位置づけ重んじます。この大日如来が被っているのが御存じの通り「五智の宝冠」です。修験道の被る頭巾(兜巾)と宝冠が同化する理由は、山伏が即身成仏して大日如来と同体になると考えられていたからに他なりません。そしてこれが語源となり「ホウカン(宝冠)」「シカン(紙冠)」「シホウ・シハウ(紙宝)」などの呼称に繋がっていきます。次に「冕冠(べんかん)」ですが、この言葉が仏衣の三角布の呼称に使用された形跡は記録に残っていません。この冕冠(べんかん)とは天皇礼冠ともよばれており、東アジア圏の各国(日本、中国、韓国、ベトナム)で天皇や王族が祭礼儀式において被る冠のことで「御物」として日本にも宮内庁が何点か保存しているそうです。正倉院にも一部破損した不完全なものが保管してあるらしく、シルクロードを伝って日本へもたらされたと考えられています。しかしながら天冠とは呼ばれていません。天冠はこの冕冠の土台部分のパーツを指すようです。それではなぜ三角布が宝冠から天冠と呼ばれるようになったのでしょう。これは前出の資料で所沢(埼玉県)で呼ばれていたことに注目点があります。元々「天冠」とは能楽や舞楽で使用されていた被り物の呼称のようですが、ひな人形のお内裏様が被っている冠の呼称に現在でも業界では使用されているようです。そして埼玉県には岩槻市(現さいたま市)という人形の一大生産地があり、戦後のベビーブームには周辺都市(所沢を含む)でその人形に使用する部品生産が盛んに行われていた事実があります。そのころ地区の葬儀を仕切る村組織や自治会の「とうや」が呼びはじめたのか、地元の葬儀社が名付けたのか、仏衣生産者が名付けたのかは分かりませんが、戦後すぐに埼玉県南部で「天冠」と呼称されていた事と重ね合わせれば合点がゆきます。どちらにしてもほんの一部の地区で戦後に呼ばれ始めた名称が、古来から日本全土で呼称されていたかのごとくテレビやインターネットで紹介されてしまう恐ろしさを感じる一例です。葬儀の習俗についてはエビデンスのしっかりしていないインターネットの情報は当てにならない典型的な例と言えます。葬儀社の担当者の皆さんも安易にネット検索して、出典のはっきりしない情報を鵜呑みにされないようにお気を付けいただければと思います。(最近のウィキペディアでは出典がはっきりしない場合は削除か注意書きがあります)
余談になりますが、前出の日本の天皇が被っていた本物の冕冠(べんかん)には、冠の装飾の中に日章が刻まれた金のプレートがありその太陽の中に三本足の八咫烏(やたがらす)が刻まれているそうです。そう皆さんご存知の日本サッカー協会のシンボルマークのカラスです。そして面白いことに山伏の被り物とご紹介した「撮総(とりすぼめ)」や「兜巾(ときん)」等の三角尖頭型頭巾が鳥の頭のように見えるため修験者のことを「嚮導者(みちびきひと)」(先達)の「八咫烏」と呼ばれていた事実があります。魔除けとともに正しい所へ導いてほしい祈願が三角布にも込められていたのではないかと想像できます。
さて、意味付けの方ですが「魔除け」に関しては前出の通りです。もうひとつの「閻魔大王に失礼にならぬように正装するため」という部分ですが、これは天冠よりも「額烏帽子(ひたいえぼし)」の名称が説明しやすいと思います。この烏帽子には菅原道真公が深くかかわってきます。平安から鎌倉にかけてはその怨霊が大きな災いをもたらすと恐れられますが、天神様と崇め神社でお祀りすることにより霊は鎮められ、江戸時代には学問の神様として庶民の味方となり、当時の子供たちが憧れるスーパーヒーローとなります。このころ子供たちが道真公の(肖像画の)真似をしたくて被ったのが「布烏帽子(ぬのえぼし)」で、死者の三角布よりももっと大きいものだったと云われています。烏帽子についてはもちろん正装で、しかも平安期は特権階級の装束のため平民は被ることを許されてはいませんでした。鎌倉時代以降は庶民にも被り物が許されますが、階級によって素材や大きさが異なり烏帽子そのものが立派な成人男性の象徴となります。それで子供たちは「道真公ごっこ」のような遊びのなかで布烏帽子を身に着けて「身分の高い人物」が「正装」をしている真似事を楽しんだとの記述があります。死者にもこの簡易版の烏帽子を着けることにより「身分を高く」「正装」させて送り出したいと思い、少しでも良い所へ行けるように願ったと考えられています。関西独特の言い回し「えェとこ行きぃよ」「えェとこ連れてってもらいぃよ」の考え方にピタリと当てはまります。意味付けとしては他にも「シニマクの一部が残った」との解釈や「顔かけの白布と同じく結界を表す」など意味は多岐にわたり、とてもすべてを解説できません。また葬具の「絶滅危惧種」ともいえる品目なので、あまりこだわりすぎてもいけないだろうとは思いますが、昭和30年代に撮影されたと思われる日本民俗地図に掲載されているの写真の中に驚く1枚があります。それは棺を担いでいる成人男性が経帷子を身につけて、さらに宝冠には梵字が書かれているのです。たった60年から70年前にそのような風習・民俗が残っていたことを、何よりも確かに証明してくれる写真です。日本人の死に対する向き合い方が見えてきます。
「天冠」の件に関しては、簡単に手に入りあふれるほどの情報が氾濫している現代において、「本物」の情報を手に入れることの大切さと難しさを教えていただきました。ご意見をくださった皆様に深く感謝申し上げます。今後ますます出典がしっかりしている情報をお伝えしていく所存です。ありがとうございました。
今回の文中に「村組織のとうや」という名称が出てきました。きっと若い方には「とうや」がどういうものか分かり辛らかったと思います。しかしながらこの「とうや」は村組織において重要な役割を果たしており、葬儀の習俗でも深く深くかかわってきます。「頭家」・「当家」・「祷家」などの文字が考えられますが、この「とうや」についても後々解説する予定です。