
今回のテーマは「仏衣」、特に経帷子(きょうかたびら)の意味を調べていきたいと思います。現在、葬儀の納棺に際し「仏衣:経帷子(きょうかたびら)」に関しては、普段のお気に入りだった服装の上から、掛けるだけを希望されるご遺族も増えてきました。しかしながらその意味を理解すると、ただの白装束が少しだけ特別に見えるかもしれません。
さて葬儀概論の121頁には「死装束」の項の中で「僧や、巡礼者の姿になぞらえ、白木綿に経文を記した、明衣(みょうえ)、浄衣(じょうえ)とも言われる経帷子」と載っています。さて、この「帷子(かたびら)」とは古くは「片枚(かたひら)」と書いていた通りに、袷(あわせ)ではなく単衣(ひとえ)の着物、すなわち裏をつけない着物を指しています。前出の文章の中に「白木綿に経文を記した」とありますが、ご承知の通り現在の仏衣は経文など記していない「白帷子」です。これは経帷子に2つの大きな説があることに由来するものと思われます。
1.故人の滅罪を願う(経文が記された帷子)
宗派によって記される文字は違いますが、光明真言や法華経題目、六字名号などが書かれた帷子を死者に着せることにより故人生前のあらゆる罪が滅ぼされ、たとえ地獄に落ちるものでも極楽往生できると考えられていました。生前、特に重罪を犯したわけではなく、例えば貝や魚を食べたり蚊やハエを潰したりすることも殺生とされていましたので、庶民にとっては軽視できなかったと思われます。小泉八雲の「耳なし芳一」のような話は日本各地にあるそうですが、このことと深く関連していると思われます。特に高野山では鎌倉時代より曳覆曼荼羅(ひきおおいまんだら)と呼ばれる滅罪真言の書かれた木綿の反物を作成し、高野聖が京都などで売り歩いて大きな収入源となっていた記録が残っています(祇園執行日記1343年)。この反物を使って身内の女子が帷子に仕立て上げる際に様々な禁忌(後日解説)が設けられるようになりました。当初は反物だった曳覆曼荼羅も版木によって紙に刷られるようになり、白帷子の上にその紙を置いて代用するように簡略化されてきました。高野山以外では富山県の立山にある芦峅寺(あしくらじ)が梵字と陀羅尼を刷った「立山経帷子」を広く頒布していたことが知られています。(この版木が現在も立山の資料館に所蔵されています)これは経文の記されている帷子の完成品であり全国各地で重宝されました。この時に富山の薬売り(行商)が売り歩いたとされていますが、元をただせば先に「立山経帷子」を売り歩き、ついでに「薬」を売るようになったと考えて間違いないでしょう。この芦峅寺ですが「寺」となっているものの立山をご神体とする「雄山神社」のことで山岳信仰として祀られた神仏習合の仏教色の強い神社であり立山修験の源でした。これは日本の習俗としての宗教観がよく表れている事例のひとつです。前出の曳覆曼荼羅は印刷物となったこともあり白帷子の上においていた物が棺の上から貼布されようになり、現在の金襴の棺覆いになったとも考えられています。密教系に留まらず浄土真宗においても高田派などは「野袈裟」と称して棺掛け専用の袈裟を積極的に貸し出していた記録が残っています。現在でも僧侶が枕経でお越しの際などに、白帷子へ経文を書かれる御寺院様が各地にいらっしゃるようです。以前に兵庫区の法華宗のご住職でしたが、白帷子の背の部分に「十界曼荼羅」をご遺族の目の前で(御軸にソックリの文字で)スラスラと書かれ驚きました。これまでご紹介してきた内容を調べているうちに、あらためて日本人が「故人の滅罪を願うために経文が記された帷子」を着せることの意味を知り、大切な人を想い、死後の安寧を願い、深く祈りをささげてきた歴史を知ることができました。
2.仏教伝来以前より白布で死体を包んでいた
もう一つは仏教伝来以前から遺体に白い布を巻いていたという説です。民俗学者の五来重は「すべての葬具や葬礼は原始古代の葬法を反映したものとして、その起源を考え、その変化の跡付けをすることによって、はじめて体系的な解釈ができるものである。」と著しています。柳田國男は「葬送習俗語彙」のなかで長崎県壱岐地方に残っていた「シニマク」と呼ばれる死装束を紹介しています。シニマク=「死人に巻く」と直接的な呼称が残っていた例ですが、これは白布そのものを指すのではなく、色々な小物まで合わせたセット一式だったようです。その中には「ヤマゴザ(トントンゴザ)・抹香・ネンブツガミ(六字名号もしくは十三仏紙)・紙製の経帷子・ミョーガ紙(冥加金=六文銭か?)・数珠・櫛・針、以上のものをシニマク一式といふ」と解説しており、五来はこの中のヤマゴザが仏教化したものだと説いています。「ヤマと呼ばれた霊山の洞窟で発見された人骨に、竹のアンペラ(ゴザ・ムシロ)状の編物の跡があったといわれるのは、この時代から竹の繊維で編まれた曳覆布が存在したことを暗示している。」と書いており、風葬死体に布を掛けた時代があったことが想定できると論じています。経帷子を仕立てるときに「ハサミを使わない」「糸尻を止めない」等の禁忌は、完全な形に縫い込めることを嫌った(井之口章次)との説もありますが、本来死者に着せるものは、裁ったり縫ったりすべきものではなく、一枚の完全な白布で包んだり覆ったりしてきたことの名残りと考えられます。この白布は一丈(十尺)の長さで矩形(長方形)の布であったと言われており、古代においては最大級の贅沢品であったと思われます。風葬から入棺土葬をするようになっても「ヤマゴザ」「シキマンダラ」と呼び棺の中に敷いたり、死者に掛けたりしてきた名残が白帷子として現在に至っているというわけです。それではなぜ経文の書かれていない白帷子を「経帷子」と呼ぶのでしょう。それは「経(を読むために仕立てた)帷子」だという解釈です。死者は火葬された場合は「三昧堂(納骨堂)」、土葬の場合は「三昧場(墓場)」で一心不乱、無我の境地でお経を読むものだと考えられていました。「三昧(さんまい)」とは仏教用語で「心を一ヵ所に定めて動かさず平静に保つこと」とあります。現代では「読書ざんまい」や「ゴルフざんまい」はたまた「贅沢ざんまい」など一つのことを過分にする状態を意味して、本来の意味からかなり離れて誤用されていますが、死者こそ三昧にふさわしい状態であり、その三昧の境地に達した人々が集まり読経する「三昧堂」であり「三昧場」という訳です。そこには滅罪という考えはありません。死者=仏弟子=仏様であり、何物にも汚されていない真っ白な装束で読経することこそふさわしい衣装と考えられました。この説も古代から脈々と続く死者を敬う日本人のこころがよく表れており、白帷子でさえもおろそかにはできなくなりました。
喪服(明治以前は白装束)や経帷子を含む死装束を「イロ」「イロギ」と呼ばれていたところが日本各地に多数点在しています。但馬(兵庫)会津若松(福島)、諏訪・伊那(長野)、宇治山田(三重)、広島・福山(広島)、柏崎、佐渡(新潟)、出雲斐川(島根)、駿河安倍(静岡)その他四国、九州に至るまで上げればキリがありません。地区によっては「イロ」が「エロ」に訛ったりしていますが、この「イロ」の漢字は「色」ではありません。かの柳田國男でさえも葬送習俗語彙の中で「色」と誤解し「白色の隠語であらう」と論じています。古くからの伝承が口伝であったために「イロギ」が「色着」と勘違いされ、白木綿以外の甕覗(かめのぞき)=水色、藤鼠(ふじねず)=薄灰紫、の着物などを着付けるようになってしまった地方もあるようです。イロギとは漢字で書くと「倚廬着」と書きます。「倚廬(いろ)」とは中国故事より「喪に服すための仮屋」を指すことが徒然草(吉田兼好)の記述に出てきます。ということは、死者だけでなく喪に服する遺族まで「イロギ」を身に着けていたであろうことが分かってきます。遺族、親族や葬列で棺を担いだ近親者までも白装束を身に着ける慣わしの地区が全国各地に最近まで残っていたようですが、それは本来の「倚廬で喪に服し読経するため」の意味からも、経帷子こそ相応しい装束であったからだと考えられます。(喪服が黒になったのは欧米の影響を受けた明治中期以降)
●「旅装束」
遍路姿とは、いつ何時に行き倒れになってしまっても良いように、死装束を身に着けて巡礼をするものだと言われています。これは死者の霊魂が死出の山路の永遠の旅で、生前の罪の贖い(償い)の苦をうけるという考え方や、賽(さい)の河原を通り三途(さんず)の川を渡ってあの世にたどり着くといった考え方の形象的表現により「死装束=旅装束」が定着したと思われています。しかしながら第2号で解説したように経帷子と旅装束には何の関係もありません。むしろ死者に経帷子を着せた上で、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、草鞋(わらじ)、杖(つえ)などの旅装束を身に着けさせて「死装束(仏衣)」のセット化がなされ、固定化してきたことで遍路姿が死装束と言われるようになってきたと考えられます。地方によっては蓑笠(雨具)、サンヤ袋に握り飯、尻敷き、笈摺(おいずる)、ノデンボ(魔除け杖)などなど様々な旅装束を死者に装着させます。「浄土真宗は即得往生のため晴れ着を着せるように」と言われるご寺院様もおられますが、ご遺族が白装束を希望されれば、経帷子だけを着付け、旅支度をしなければ何ら矛盾しないことになります。さて死者が旅をする「死出の山路」と「三途の川」ですが、これこそ日本の民俗信仰と仏教が多分に混ざり合い、それまであった祖霊信仰に仏教の考え方をうまく当てはめることにより日本人が仏教と深く結びつく元になった考え方です。まず「死出の山路」は祖霊信仰の霊山と山岳信仰が重なった思想で白山信仰や富士講などに強く見られますが、山に登ることを苦行ととらえ、この苦行によって罪や穢れを消滅させると信じられた「滅罪」が目的でした。次に「三途の川」ですが、これには「禊ぎ・潔め・流れ」の古代神道に近い民俗信仰が深くかかわるようです。死者は死んで間もない時は穢れているので、川を徒渉して禊ぎ清めなければならないという思想です。「三途(さんず)の川」の語源は「精進河(そうじか)」から「葬頭河(そうずか)」の変化と思われ、死者は生前の罪や穢れを精進潔斎して清める川を必ず渡らなければならないという信仰に結びつきました。「流れ・灌ぎ(そそぎ)」も滅罪儀礼として重んじられ、特に濡れて川を渡ったものはその呪力が大きいと信じられていました。これらのことは神仏習合と呼ばれる日本人独特の宗教意識が宗派の枠を超えたところにあり、霊魂と他界観念、あるいは罪業観に対する滅罪観の上に葬墓制が成立しているからだと論じられています。葬式のお経・真言・念仏・題目や引導の作法には少しずつの相違はあっても、民衆葬においては葬法や葬具がどこも同じで「葬式仏教は地域性こそあれ、宗派性は極めて稀薄」と言われる所以だと思われます。
もうひとつ巡礼遍路が死装束を身に着ける理由と考えられているものが「逆修(ぎゃくしゅ)」と呼ばれる疑似再生儀礼です。法然上人が逆修説法の中で「寿命長遠の法」と説き、自分を一度死んだものとし棺桶に入ったり、経帷子を着て三昧堂で読経したりすると、寿命が延び、老後が健康で死後は往生成仏するという信仰がありました。今でも「生前にお墓を建てたり、仏壇を備えたり、入棺体験したりすると長生きするとよく言われます。」などと皆さんが使っているトークの基礎になる考え方です。これは「聖徳太子伝暦」に聖徳太子も生前に建造した「太子廟」に入り、死人の衣装を着た(死人に扮した)と記述されており、法然上人が説く以前の仏教伝来直後から「逆修」儀礼が行われていたことが分かります。したがって巡礼遍路も死装束である経帷子に身を固め、旅装束もすべて純白にして一度死んだことを表し、死後の死出の山路の責苦を巡礼になぞらえつぶさに嘗めて、それまでの罪を滅ぼし、結願によって生まれ代わって健康と長寿と死後の安楽を得る目的があったと考えられています。