
2.「末期の水」について
最近では「末期の水」は死後、病院から搬送され、安置した後に行われることが多くなったと思います。病院で亡くなることが多くなった今日、病院内で行うことへの抵抗感や違和感が先に立つために、その場(病室)で行なわなくなったのだと思われます。本来は死亡する直前に行われることが多く「死に水を取る」と同義に扱われていました。枕経に来た僧侶が末期の水を説明する際に、お釈迦様がお亡くなりになる直前に水を所望され、弟子たちが水を差し上げたところ安堵して最後の時を迎えられた。という故事にちなんでいる行為だと説明するのを何度も聞きました。あの世でものどの渇きに苦しむことの無いようにとの説明を付け加える僧侶もいました。このことから末期の水が仏教の儀式だと多くの方が思っておられることでしょう。しかしながら「岩波仏教事典」では末期の水の項目は無く、他の項目の説明文の中に言葉としても出てこないのです。インドや中国をはじめ他国の仏教で死者に同様の行為を行うことはありません。日本人が古来から行ってきた民俗行為に仏教故事を当てはめたのだと思われます。しかしながらこの民族儀礼に関しては様々な時期、場面、方法とその意味付けにおいて、いくつかの異なる解釈がなされています。その理由についての考えられる事項として、仏教民俗学会が編集した「仏教民俗事典」において末期の水の項目に次の記載があります。「誕生から死に至る人生儀礼についての報告例は多いし、葬送習俗もかなり精細に調査されてきた。だが臨終儀礼は第三者を排除する場であるためもあってか、報告例も限定されている。末期の水の問題はその典型だといえよう。死者と水の関係はまだ解明されたとはいい難い。」葬儀の現場で仕事をしてきた人間として、この文章を読んだときは自分が体験して感じ得た感覚と最も近いものでした。
■ 今際の際(いまわのきわ)に行う意味
「末期の水」を全く知らない方のために「民俗小事典 死と葬送」に記載されている主要部分を紹介しておきます。「臨終に際して、近親者が水を口に含ませることで、一般に死水(しにみず)といわれる。死の間際に水を求める欲求を満たすために行われる。(中略)亡くなった後に行われることもある。筆・綿・紙・樒の葉などが用いられているが、特別に作った柄杓で飲ませる例もある。」と解説されています。さらに鳥の羽や紙縒り、綿棒、割りばしと脱脂綿、貝殻など地域風習により多岐に渡ります。さて、今際の際と言われる臨終直前に行う意味について、全く正反対の解説がなされています。一つは水の霊力による再生を祈る行為です。水は生命維持の根源でもあるので蘇生願望の行為として行われました。気を失った人に水を吹きかけて正気に戻すように、再生を願う「魂呼ばい」の行為として死者の顔に水を吹きかける習俗の報告例があります。なんとか口に含ませた水を飲んで欲しい、そしてもう一度元気な姿に戻ってほしいという思いを込めて行います。もう一つは「望み水」と言われ、水を与えて安楽死させるという行為です。死期がせまった病人に、欲しがるからと言って水を与えると、おいしそうに飲みほした後でこと切れることを過去の経験から知っていました。また危篤の際に脈が亡くなった後で、口に三度水を含ませても喉を通らない事を見届けることで、生死を確認する実質的な死亡確認として行われた記録があります。地域特性はあるものの蘇生願望と安楽死の正反対の意味が一つの行為に込められてきたことに、残された者の複雑な心情を見て取れます。さらにもう一つは生還を期し得ない場合におこなう水杯(みずさかずき)を交わすためというものです。親の死水を取らないようなものは最大の親不孝とされ、天罰を受けると言れたり、末期の水を与えられなかった死者の霊は浮かばれないとされていました。これは酒ではなく水杯でなければならず、今際の際に交わす意義を見出し、現在では考えられないほどの極度の緊張をもって行われていたに違いありません。
■ 臨終後は滅罪と魂しずめ
死後に行う末期の水は唇を湿らす程度の行為となります。ここに込められる意味は前回の解説と多少重なりますが、滅罪と鎮魂です。滅罪と言っても故人が生前に盗みを働いたわけではありません。故人が魚や鳥を食べていたり、蚊やハエなどを退治したかもしれません。さらに知らずにアリを踏み殺していたかもしれません。殺生が罪だという考え方は主に仏教が伝来して以降に広まったと考えられますが、殺生したものは六道の地獄や畜生、餓鬼などに行って責め苦を追わなければならないと固く信じられていました。そのために葬儀の際には何とかして罪を滅ぼし、人間や天上に行きたいとの願望は様々な葬送民俗に色濃く表れています。経文が書かれた帷子を着せたり、滅罪真言の書かれた護符を懐に忍ばせたり、なかでも水の浄化作用を強く意識した水垢離や灌頂を連想させる儀式作法は滅罪儀礼の中心であったと思われます。湯灌など外から体を浄めるだけでなく、末期の水を口に含ませることによって体の内側から身を浄めて罪を洗い流そうと考えました。現在でも出棺時に「ええとこ連れてってもらいぃヨ!」と故人に向かって声をかける方を見かけますが、昔の人は現代人の想像が追い付かないほど真剣に滅罪を願っていたに違いありません。鎮魂に関しては荒魂に対する恐れから「流す」という作法でこれを鎮めようとします。新亡の霊は荒魂とされ適切な祭祀を怠ると即座に祟りをもたらし、遺族のみならず村全体に大禍に見舞われると考えられていました。霊魂を「流す」ことは「精霊流し」に代表されるように様々な儀礼が日本各地に存在します。さらに「日本の葬送儀礼(岸田緑渓著)」には「霊魂は水を好むようです。(中略)水はこの世とあの世の境界にあって、両者を結び付けると思われた・・・」と水と霊魂の関係を解説し、沖縄の事例を紹介し「水を媒介にして、生と死の循環が期待されているのではないか・・・」と結ばれています。
最近では無宗教葬や直葬の影響で「末期の水」を行わない葬儀社が増えつつあると聞いています。また、葬儀社が勧めても遺族側が断るケースもあるそうです。蘇生願望と安楽死、別れの水杯に滅罪と鎮魂など複雑な感情が交差し凝縮した民俗儀礼です。意味の深さを少しでも遺族に説明して、故人への願いを行為で表す心豊かなお葬式を1件でも多く施行してほしいと思います。